障害児を普通学校へ全国連絡会会報 2015年8号 337号巻頭文

この危機的状況に、それぞれの行動を
…私たちの願う共生教育の実現のために…

石川県・運営委員  徳田 茂

私たちは全国連に連なりつつ、障害のある子とない子が共に生き、共に学び、共に育ち合う教育を目指してきました。

私自身について言えば、一緒に学ぶ方が障害児がより育ちやすいから共生教育を目指すというよりも、障害児が地域の学校へ通うのは当然の権利であるとの考えに基づいて「分けない教育」の実現を目指してきました。加えて、小さい頃から共に生き共に学ぶことは、障害のある子にとってもない子にとっても大切なことであると訴えてきました。多くの人たちも同じ思いで歩んできたものと思います。

私たちの立場から見ると、障害の種類と程度によって子どもを振り分ける特殊教育は明らかに差別的なものでした。また、個人の教育的ニーズに応じた教育をする特別支援教育は、障害児の育ちだけに焦点を当て、その子らを取り巻く学校教育や社会状況を見ようとしていないという点で、大きな欠陥があると言わざるを得ません。

私たちの目指す教育は、単に障害のある子の効率的な発達を目的とするものではありません。障害のある子も含めて、さまざまな条件や特性を持つ子どもたちが、時にはぶつかったりもしながら互いを尊重し合う心を育み、その中でそれぞれが力をつけていける教育です。

私たちの願う教育(私は「共生教育」と言ったり「共生のインクルーシブ教育」と言ったりしています)が実現するとしたら、それは子どもたちの一人ひとりがクラスの中で居場所があることを実感できるような学校現場において、です。そのためには、学校が子どもたちにとって居心地がよく、安心できる場でなければなりません。そんな学校にするためには、先生たちがいらぬ外圧から守られ、余裕を持って子どもたちと関われる環境が必要です。私は、非常に乱暴な言い方であることを承知で、先生が毎日子どもたちと顔を合わせたくて、ワクワクして学校に行けるなら、それだけで子どもたちはいい育ち方ができる、と考えています。

私たちはまた、「共に育つ教育は、共に生きる社会の大切なベース」と言ったり、「共生社会は、共生教育から」と言ったりしてきました。それらの言葉は、私たちの究極の願いが、さまざまな人々が互いに尊重し合いながら共生していける社会の実現であることを示していました。

幸いにして、この5、6年で障害者政策は大きく変わりました。「個人の問題」から「社会の問題」へ、「分離・隔離」から「共生」へと、わが国の障害者政策は好ましい方向に向かいつつあります(細かい点では、いくつも問題がありますが、今はそこには触れません)。

その一方で、人々が共生すべき社会・子どもたちが共生すべき学校の2つともが、大きな危機に直面しています。今のような状況のもとで障害児だけのことを考えていくことは、砂漠で人々の水がなくなりそうな時に、自分の飲み水だけを確保してほかの人たちのことを顧みないのと同じです。私たちは、みんなの飲み水を求めて一緒に歩く者でありたいと思います。

安倍政権は「積極的平和主義」というスローガンを掲げて、私たちの国を戦争のできる国にすべく猛進しています。 もともと「積極的平和」の概念はノルウェーの平和学者、ヨハン・ガルトゥングが提唱したものだそうですが、それは単に戦争のない状態を表す「消極的平和」に対し、貧困や差別などの構造的な暴力のない社会状況を表す概念です。ヨハン・ガルトゥングの積極的平和の概念は、私たちの目指すところと通じるものがあり、大いにうなずけます。

ところが安倍首相は、似たような言葉を使って、ガルトゥングの言わんとすることと全く異なることを目論んでいます。言葉を無力化させていく典型例です。

安倍首相は憲法違反の集団的自衛権の行使を含む安保法案を閣議決定し、国会審議の前にアメリカに対してこの法案を夏までに成立させることを約束しました。とんでもない暴走です。

そして、多くの憲法学者の「違憲」の声に全く耳を貸さず、市民の訴えも意に介さず、国会では野党議員の質問にまともに答えようとしないで、ついにこの7月に衆議院で強引な採決をし、法案を通過させました。

安倍政権の立憲主義の否定、アメリカへの追従と国民無視の姿勢は横暴としか言いようがなく、こうした動きを前に何もしなかったら、子どもたちやこれから生まれてくる子どもたちに申し訳が立ちません。

私たちの国はこの70年、戦争をしない国として歩んできました。戦争によって同胞の命が奪われることなく、また他国の人の命を奪うことなく歩んできたことを、私はとても誇りに思うと同時に素直に喜んできました。

戦争をしないという大前提に立ったうえで、障害者問題をはじめ、さまざまな課題の解決に微力を注いでいきたい。そんな思いで生きてきましたが、ここに至って、大前提が根底から覆される危機に直面しています。

戦争時に障害者やその家族がどのような目にあったか、私たちはさまざまな形で学んできました。戦争は、障害者を「非国民」にしてしまいます。二度と再び、障害者が「非国民」などという理不尽なレッテルを貼られるような時代を到来させてはならない。障害者の父親として、障害児の育ちに関わる者として、心からそう思います。

もう一つの気懸りとして学校をめぐる状況がありますが、こちらの問題も年を経るごとに深刻になっています。繰り返しになりますが、私たちは障害児だけの育ちを考えていけばよいとは思っていません。障害児を含め、さまざまな子どもたちが共に生き、共に学び、共に育ち合う教育の実現を願っています。ですから当然、「普通教育」そのものの在り方に無関心ではいられません。

2006年に国連で障害者権利条約が採択された時、「これでようやく日本も変わる」と喜んだものですが、それからは2週間もたたないうちに、教育基本法が改悪されてしまいました。教育基本法が改悪されたら日本の教育はたいへんなことになる。止むに止まれぬ思いでその時私は生まれては初めて、デモに参加するために東京へでかけました。

教育基本法改悪の時も安倍首相でした。この人がトップに立つ政治状況は、本当に危険をはらんでいます。

近年、学校も驚くほど管理的になり、かつてののんびりした雰囲気はすっかり影をひそめました。学校に市場原理が入り込み、目に見える短期的な成果が求められるようになりました。そこでは当然、競争主義的発想が勢いを増すことになります。全国学力テストが象徴的なものです。テストの平均点を上げるために各自治体が血眼になっています。模擬テストをしたり反省点の洗い出しをしたりして、少しでも順位を上げようと必死になっています。

そんな雰囲気の学校はどの子にとっても好ましいものではありませんし、障害児は排除されてしまいます。私たちの望む学校教育とは真逆のものが、今の「普通教育」の姿です。この「普通教育」の在り方を改めることなく、「個々の教育的ニーズ」に応える教育を追い求めていっても、いつまでたっ(15頁に続く)(3頁から続く)てもインクルーシブ教育は実現しません。

さらに悪いことに、ついに道徳が教科化されます。教育基本法が改悪された時から、この日が来ることを恐れていたのですが、とうとう来てしまいました。愛国心をはじめ、子どもの心のうちを評価するなど、もってのほかのことです。子どもに失礼です。国のものさしによって子どもの心を評価しなければならない、現場の先生たちもたいへんです。ストレスがさらに増すことになります。

その他に原発問題や沖縄の基地問題など、私たちが目をそらせてはならない問題が多々あります。生身の人間として限界もあるので、すべてのことに深くコミットすることはできません。でも、自分が直接関わる問題事だけを考えているのでは視野が狭すぎるということだけは忘れないようにしたいものです。 まずは、目の前の政治・社会状況や学校の直面している大きな危機を少しでも変えていけるように、私たち一人ひとりが、自分のできるやり方で行動を起こしていきたいものです。それを抜きに共生教育の実現はあり得ないのですから。

他、記事は以下の通りです。お読みになりたい方は、この機会にぜひご入会下さい。

障害児を普通学校へ全国連絡会会報 2015年8月337号目次

巻頭巻頭 この危機的状況に、それぞれの行動を…私たちの願う共生教育の実現のために…/差別解消法文科省ガイドライン案にパブコメを!!/第17回全国交流集会・分科会発題要旨 第1分科会「出生前から就学まで」 第2分科会「地域の子どもと一緒に学ぶ」 第3分科会「地域の学びを高校へ」 第5分科会「障害者差別解消法をどう使うか」/インクルーシブ教育と矛盾し、特別支援教育制度を強化する「多様な教育機会確保法案」/「多様な教育機会確保法案」に反対する声明文/普通学校もあかんねん その10/仙石線に乗る/●相談からコーナー「もっと個別の教育を受けるべきだ」と担任から言われ、今度話し合うことに/事務局から/事務局カレンダー