障害児を普通学校へ全国連絡会会報 2012年10月 308号巻頭文

学校に診断される子どもたち

東京都・世話人  石川 憲彦

 いじめの報道を見ていたら、尾木ママが、臨床教育という言葉を使っていた。臨床教育というのは、もともと医学用語。実践的な診療の教育を基礎医学教育と区別して、こう呼ぶ。臨床(クリニック)の「床」(ベッド)という言葉は、語源をたどると「死の床」にゆきつく。つまり、臨床とは、死に臨むという意味なのだ。

 学校臨床という言葉も、よく聞く。臨床心理士が学校に配属されてからの流行だが、私にはどうもしっくりこない。学校と臨床。生命の育ちを一緒に楽しみ合う教育の場と、老・病・死の悲哀が漂う医療の場。私たちの世代は、教育と医療を生と死の対極に置くように洗脳されて育ったからだ。洗脳には、次のような歴史的背景がある。

 200年前、イギリスとフランスは、近代国家の市民を育てる義務教育の学校を開いた。植民地化した世界で覇権競争に勝つためには、自然と土地に慣れ親しんで生きてきた農民を改造し、工業化と軍国化の方向に従順な近代市民に育成する必要があった。そのために、国家は、まず子どもを管理して洗脳する教育機関を創ったのだ。

 同時に、精神医療も急速に整備した。農村から都市へ、自然から機械へという、強制的で反生物的な洗脳の流れについていけない人々を、近代社会の発展の邪魔にならないよう、無害にして排除する道具が必要になったのだ。実は、反自然的な工業化・非地域化・軍国化に適応する能力は、IQが測定する知能が主体である。つまり、自然的知恵に従順で、近代合理主義に迎合しない人々は、今なら知的障害・統合失調・認知症などと呼ばれる人々であった。

 洗脳のための学校、洗脳できない者への臨床。両者は、洗脳されて育った私には、正反対の存在と見える。そこを問い直すというのなら、尾木さんが、いじめ死に関わる時に学校臨床と言いたいのも、理解できる。一人の死から、みんなの生を学び、生と死を共有する。生老病死。近代社会の成立までは、全てを等しく大切なものとして受け止めてきた一体の価値。それを、生産性のみを重視し、生命のよりどころを見失ってきた学校に再び取り戻す。それなら、わかる。

 しかし、臨床という言葉を、いささか安易に使用してはいまいか。臨床心理士もそうだが、尾木ママも怪しい。特に、医療と教育の連携などとなると、怪しい。学校で、発達障害やうつ病を疑われて、精神科を受診する子どもが急増している。受診を勧めるのも、これまでのように、教員・校医・スクールカウンセラーだけではない。同級生の親や、近所の人々というケースも増えた。来院するのは、以前と違って、20世紀の医学基準からは診断名がつけられないような子どもが、ほとんどだ。そのため、診断は、曖昧。A医師はADHD、B医院では広汎性発達障害、C病院では知的障害、教育相談所では学習障害…なんてことが起こる。

 この状況は、200年前に似ている。例えば、20世紀精神科の最大の障害とされた統合失調症。この障害は、200年以上前には、存在したかどうかも解っていない。「大うつ病」以外の精神障害は、内科の病気とは異なり、近代社会そのものが造り出した可能性が少なくないのだ。医者になりたての頃、先輩に統合失調症の診断基準を聞いたら「匂いだよ」と教えてくれた。当時、病者の漂わせる違和感をプレコックス感などと呼び、一般の人と違うとされる独特の匂いを嗅ぎ分ける能力こそ、精神科医の最大の力量とされていた。

 精神科の診断には、いまも明確な基準がない。いや、むしろ最近、基準が曖昧になってきている。ICDとかDSMなどというガイドラインはよく知られているが、それらも現在研究・検討中の基準にすぎない。現代社会が創造した新しい「匂い」診断の代表が、発達障害やうつ病である。

 貧困の加速度拡大も、200年前と似ている。野宿生活者の数は増加し、戦後はほとんど見かけなくなっていた餓死者が出現し始めた。その大部分が、精神障害・知的障害者とされる。かれらは、生活保護も、年金も受けていないことが多い。都市化・核家族化・労働形態の変化や離婚の増加などによって、今では逃げ帰るべき家も故郷も消失してしまった。近代の貧困は、経済的な欠乏だけでなく、完全な孤立まで招くのだ。

 人間関係からの隔離は、最大の差別、死をも生み出す。だから、私たちは、子どもの時から分けないで、何はなくてもただ共に育つことだけを教育の中心に求め続けてきた。

 しかし、200年前と変わり始めたところもある。治療。当時は、病院で強引に物理的(フィジカル)に隔離・鎮静化したが、現在では、人道的にやさしく、薬で化学的(ケミカル)にマインドコントロールする。この違いは、時代社会の差を反映する。大量に物造りをしても儲からず、イメージが高価な商品価値となる時代である。その結果、生産性のために生命力だけを生活から抜き出して、知能教育を売り物にしてきた近代の学校は価値を失い始めた。学校も、障害児をフィジカルに選別隔離するだけではなく、ケミカルに診断し治療的に対応するようになった。これが学校臨床である。

 昨年、震災が、新たな問題を生んだ。実は、それ以前から、東京の野宿生活者は、東北出身者が多かった。その差別され続けた地方に都市から隔離されて押し付けられた原発が、居住者のあらゆる関係性を奪い去ったのだ。フィジカルな差別が生んだ、ケミカルな差別。この図式は、障害児・者の未来を暗示しているのではないだろうか。高度成長によって、右肩上がりに増加してきた富。そのおこぼれを貪って、肥大化してきた障害児・者の医療・福祉・教育予算。そのドラスティックな破綻は、目の前に迫っている。

 いじめも特別支援も、学校臨床は、破綻する近代の学校制度の断末魔のあがきと見える。フィジカルな分断に反対してきた私たちの運動は、どのようにしてケミカルな診断をこえ、共に生きる新たな知恵を生み出せるのか? 正念場である。

他、記事は以下の通りです。お読みになりたい方は、この機会にぜひご入会下さい。

障害児を普通学校へ全国連絡会会報 2012年10月308号目次
巻頭 学校に診断される子どもたち
全国連の会員と友人のみなさまへ 臨時カンパと会員拡大のお願い
「障害者差別禁止法」の実現を!
共同連全国大会に参加して
各地では 長野からの近況報告
脳原性運動機能障害と障害者手帳
全国連・初の連載小説第3回 ただやみくもな、わけではない
相談からコーナー 「普通学校の門戸障害児にも広く、文部科学省政策転換」は本当?
本の紹介 松森俊尚著「餓鬼者(がきもん)」
事務局から
熊谷直幸さんを偲ぶ会のお知らせ