障害児を普通学校へ全国連絡会会報 2012年5月 304号巻頭文

地域で育ちあうことの大切さを痛感させた大震災

宮城県・会員  小林厚子

 去年はこんな光景があったのだろうか。春おそい東北にも桜だよりが届き始めた四月、真新しいランドセルを背負った新一年生が、両親に手をひかれて学校の門をくぐる姿を目にした。なぜか新鮮に映り「おめでとう」と心からそう思えてうれしい気持ちになった。しかし、これから仮設校舎や間借り校舎での学校生活をスタートさせなければならないことを考えたら、その気持ちが打ち消され悲しく辛いものに変わってしまった。すこしずつ仮設校舎が建てられてはきているが、まだまだ教育環境は整っていない。一つの学校で四校の入学式が行なわれたり、一つの教室で三校の一年生が三人の担任による授業を受けているという驚きもある。それぞれが、これまで住み慣れた土地を離れ、学区外の仮設住宅に転居を余儀なくされて、友だちとも遊べず学校との往復だけという子どもたちも多い。毎日の生活の中の、せめて学校だけでも安心して楽しく過ごせる環境にと願うばかりである。

 全てはあの一年前の未曾有の出来事から始まった。忘れられない〝さんてんいちいち 3・11〟である。最大震度7の激震が東北地方を襲い、その後の巨大津波が一瞬にして町をのみ込んだ。大きな工場も、住み慣れた家々も、毎日通る道路も、芽吹き始めた周りの木々も田畑も全て流された。見慣れた風景がどこにもなかった。そればかりではない。長い年月をかけて築きあげて来た文化も生活の営みも瞬時に失うことになってしまった。最も悲しく辛く苦しかったことは、多くの友人、知人、隣人を含む19,000人という尊い命が犠牲になってしまったということ。本当に信じがたい出来事で、自分たちの近くで起きている現実を受け止めるのに長い時間を要した。

 あの日、私たち家族5人も避難所に指定されている中学校に向かおうと車に乗り込んだ矢先、庭先まで津波が押し寄せて来てしまい、自宅二階に逃げるしかなかった。みるみる一階の天井まで水に浸り、あっという間に家の周りが海と化し、敷地内の倉庫も車も愛犬までもが目の前から消えていった。津波の想像をはるかに越える威力に無力な私たちは〝どうかここで水が止まってほしい〟と祈り続けるしかなかった。せまりくる暗闇と名残り雪が降りしきる寒さと空腹の中、止むことなく一晩中揺れ続ける余震に、底知れぬ恐怖心をいだきながら夜明けを待ち続けた。三日目にボートで救助されたが、人生でいちばん長い日だったように記憶が残っている。
 この極限状態で、ダウン症のある次男( 25才)は冷静に行動し私たち家族を助けてくれた。3才の孫娘が「ママに会いたい」とぐずれば遊び相手をしてくれ、83才の義母の身体を気遣い続けたのも彼だった。頭上にヘリコプターの音がすれば急いでベランダに出て、赤や黄の目立つ洋服を力の限り振り上げてSOSを送り続ける役目もしてくれた。父親と二人で家族をしっかり守ってくれた。後に、このときの頼もしい彼の行動は25年間の様々な体験があってのことだと気づくのに、そう時間はかからなかった。

 ダウン症という障がいはあったが、幼い頃から〝みんなと一緒に地域で〟という環境で育てたいと考えたため、当然の如く地域の普通学級で9年間を過ごし、みんなが進学するであろう普通高校(昼の定時制)の門戸を開け、石巻専修大学生というあこがれのキャンパス生活も四年間体験した。言うまでもなく、その時々で多くの問題をかかえながらではあったが、地域や同世代の中でしか得ることのできない大切なかかわりあいを持つことができた。そのうえで多くを学びあい、経験しながら身につけたことは貴重で、今回の震災でそれが大いに役立てられたと感じた。

 あれから一年が過ぎ、障がいのある人たちの震災当時の様子も見えてきて、重なる所がたくさんあった。新しい場所や対人関係が苦手で避難所で興奮してウロウロしたりする行動を迷惑な目で見られるのに耐えきれず、崩れた自宅に戻らざるをえなかったという人がいたり、
あふれるほどの避難者を見て自らここにはいられないと親戚に身を寄せ続けた報告もあった。避難所の入り口で車イスは入れないと拒否されたひどいケースも耳にした。反面、医療行為をともなう重い障がいがありながら、1,300人の避難所で2ケ月という長期間を過ごせた家族もいた。お母さんの「弱い命をつなげてもらえたのは地域の方々のおかげです」と語られた言葉が印象に残った。地元の小中学校で過ごし多くの住民とも知り合っていたことが避難所生活で生かされたとも語った。地域の人たちが食事の支給に並んでくれたり、真夜中の痰の吸引も「気にしないで」と見守ってくれたという。何より同級生がいつも周りにいてくれて体調を気遣ってくれたことは心強かったと感謝していた。

 地域で育ちあうことの大切さを今更ながら痛感した出来事でもあった。地域の人たちが障がいのある人をより理解してくれていたら避難所で支えあって生活できた家族がもっとたくさんいたのではないかと残念に思えた。とかく障がいのある人やその家族は地域とのつながりが薄く、時に孤立しがちになってしまうように思う。ささいなことだが「去年の運動会、頑張ったね」とか「修学旅行楽しかったね」など、地域の人たちと話題を共有できることでこそ孤独感から解放される。ちょっと勇気を出してこちら側も出て行く必要があろう。つながってお互いに存在を確認し合うことができたときには楽に支えあうことができるのだと感じた。加えて、障がいのある人の体験不足も避難生活を大きく左右した。小さい時から多くの人と出会い、多くの物を目にし、耳にして育つ環境が大事なことも知った。このことが可能になる社会づくりを、みんなでしていかなければならない課題も残された。甚大な被害をもたらした東日本大震災だったがそこから学ぶことも多くあったと思う。地域の人とつながっていくことも、多くの体験をすることも、すべては地域で〝共に学ぶ〟ことにあると実感した。

他、記事は以下の通りです。お読みになりたい方は、この機会にぜひご入会下さい。

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