障害児を普通学校へ全国連絡会会報 2017年6月355号巻頭文

学校の中の介助を考える

生活と教育を考える会 佐藤 陽一

千葉では医療的ケアを含め「親の付添い」が求められることはほぼなくなりました。その代わりに気になるのは、親が「介助がいると安心」と思う中身と、実際の介助が正反対の役割を担うことです。就学相談会では「介助員と監視員は紙一重」ということを伝えています。

私が学校の中で「介助」をするときに気をつけていたのは、この子が「できないから介助」ではないということ。みんなと学校生活を経験「できる」からこそ、「介助」として私がいる。一番気をつけていたのは、「何かをしないと、介助をしたことにならない」という思いこみを捨てることでした。この子が「できない」から、「できる」ようにするために「介助」に入るのではない。この子が周りに「迷惑」をかけるから、それを防ぐための「介助」ではない。

この子が「できない」ことを、代わりに「してあげる」ためでもない。「できない」ことがあっても、その「できない」ままの姿で堂々とそこにいて欲しいから、私は介助に入ってきた。この子が障害のために階段を上がれないとき、2階に車椅子を運びながら、私は何をしてきたのか。階段の上の友だちのいる所に行きたい気持ちを、「誰でもそう思うよね」とその子に伝え、周りの子にも「あたりまえのことだよね」と伝えること。自分には障害があるから仕方がないとあきらめてしまわないように。そんなふうにこの子が「できない」こと以上の寂しさを感じないように。そんなことを思っていた。

一人でできないから介助、先生の指示が分からないから介助と問題を数えると、問題解決してあげることが介助の中身になりやすい。そうならないために、「障害」の介助ではなく「学校生活」の介助と考えてみる。授業という生活、休み時間という生活、体育館や図書室への移動を含む生活、給食という生活。…そうした生活のための介助、という視点から考えてみる。

「授業という生活を暮らすための介助」とは、授業の中身を理解するための介助ではない。まして障害のある子がそこにいないかのように、担任が授業を進めるためではない。クラスの子が、担任の話を聞かずに遊んでいたら、それを注意するのは担任の役割だ。そのとき、介助としての私の役割は何か? その子が怒られないように前もって注意することではない。時と場合によるが、基本はその子がちゃんと担任に注意されること、の間にいる役割だ。主体感覚の育ちをじゃましない介助。子どもたちが作りあう世界のじゃまをしない介助。この子が「経験すること」を教えることはできないし、代わってあげることもできない。だからこの子が経験「できる」ことをじゃましないこと。子どもが立ち歩いたら外に連れ出す介助、とか、本人の好きな絵本やプリントだけを机に広げ、とにかく一時間、座って課題に取り組むことを目指す介助ではいけない。

そうして、この子の「私の毎日」がいつしか「私たちの毎日」に変わっていく日々を、私は子どもたちの隣で見せてもらってきた。入学するときには、「私の学校・私の先生」から始まる生活が、いつしか「私たちの学校」という実感に変わっていく日々。遠足・運動会・合唱祭という行事が、「私の楽しみ」から、「私たちの楽しみ」になっていく時間を見せてもらった。例えばピストルの音が恐くて1年生の運動会に参加できなった子が、何年か後には、どこにいるのか見つけられなくなるほどみんなとの生活の中に溶け込んでいく姿を見せてもらった。そんなふうに一人の子どもの「私の学校生活」が、「私たちの学校生活」と感じられるように、そのための「つなぎ」になりたいと思った。例えば、車椅子を押すことが「つなぐこと」だった。みんなのそばに連れていくことが「つなぐこと」だった。時には、みんなから離れてぽつんとしている子どもの名前を遠くから呼びながら、私が動かないことで、見かねた子どもたちに走っていってもらうことが「つなぐこと」だった。大人の手をかりる場面が多いことで、クラスの「私たち」からこの子一人零れ落ちないように。この子の「私」が、みんなとの「私たち」から零れ落ちないように、そんなことを思っていた。

普通学級の配慮として欠かせないのは、「みんなと一緒」を壊さないための配慮です。そのために、介助が子どもたちにどのような影響を与えているのか、を考えない訳にはいきません。手をかけ世話をやくことでできる関係もあるが、余計なことをしないことでできる大切な関係もある。適切に手をかけることが難しいように、余計なことをしないことも難しい。「介入」する介助ではなく、自分で運命を展開させ切り開く力を見守ることが学校の介助には大切です。私は、その子の障害をもって学校時代を過ごしたことがないのでそもそも教え方を知りません。子どもも、自分のやり方での失敗を認められなければ、自分のやり方を見つけることができません。その相互行為としての介助を、周りの子どもも見ています。手をかりることや知恵をかりることは恥ずかしいことではなく、「自分のやり方」を見つけるのを手伝う大人がそばにいるのだと、そんなふうに見える介助ならいてもいいのかもしれません。

…でも本当は「いなくていい」、いえ「いない方がいい」ことが圧倒的に多いのですが、その話はまた別の機会に。

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