特別支援って何だ!

障害者に対する差別は、障害そのものによるのではなく、不当な差別的取扱いや建物や法律制度などの社会的障壁によることは明確だと思う。
たとえば、歩けない私が辛い治療や訓練、苦しい道具によって、より便利になることは私自身にとっての選択の問題である。ところが、それをしなければ普通学級には入れないよ、と「共生」の条件にされてはたまらない。それが差別(=特別支援)でしょ、ということだ。

特別支援って何だ!」への1件のフィードバック

  1. 真夏の夜の魔女

     ご自身の身体機能についての訓練について、自身の問題だから学校で取り扱う問題ではないとのコメントでした。
     では、学校では何を取り扱うのでしょうか?
     心身健康に、将来、生き抜いていく力を育てるのではないでしょうか?
     小学生の低学年は、遊ぶことを基本に、自然に触れ、友達と交わり、体を思う存分動かして、持っている力全体で学んだりしませんか?給食があるのも、そもそも、体の健康を考えての事だと思います。東京などでは、社交の場と立っているので、給食がお子様ランチどころではない、お菓子のようになっているということも聞いたことがありました。家庭の味にこだわりがあって、それがとても偏食的な家庭料理の環境であれば、そのままでは栄養失調の肥満、体のバランスを崩す将来が待っているでしょう。しかし、友達の繋がりの中で、「おいしそうだ」と感じて少しずつでもチャレンジできたら?
     「生きる力」と言うのは、様々です。その人が「生きる力」をどうつけていくかについては、その人本人が将来を見据えて、その人の責任において語ることができれば、考慮すべきことだと思います。保護者もバックアップするでしょう。学校で、全てをフォローすることは時間的にも出来ないのだから、取捨選択が必要でしょう。本人の一日の持ち時間も限りがあるのだから、学校と学校外をどう切り盛りするかも重要でしょう。
     要するに、学校に居る時間に何を求めるかということになると思います。
     車椅子に長らく座ったままでは、内臓によくありません。何らかのサポートで立つことができれば、一日のどこかで必ず立つ時間を持った方がよいと思われます。訓練が必要なら訓練をしてでも。それが、将来のたくさんの社会参加に繋がるのではないかと思われます。体を壊してしまっては続かないからです。
     このサポートは学校に求めず、別の機関のサポートを利用するというのであれば、それでいいと思います。また、残された一生の時間が、訓練してもしなくても同じ、もしくは、身体機能を調整する時間も惜しいほど短いのであれば、その残された時間を自分の希望することをして完全燃焼してもらいたいと思います。
     こう考えると、学校の時間は、「社会参加」の為に、どんな力をつけるか」ということになってきます。もちろん、病院のベットの上が、その人の社会と言う場合も考えられますが、それでも、ネット社会も広がっていることだし、現代ではどのようにでも可能性を広げることができます。感覚を育てることで、周囲の環境を意味あるものとして感じられるようになり、発信できるようになる人もいます。
     中学校などで、特別の配慮の仕方が、特別扱いと言う方法で仲間から心理的に別枠扱いになるようにして生活してきた人が、その後の生活に抱くことは何だと思いますか?
     「ふつう」になることです。核心を突きますが、「ふつう」になれると思いますか?
     人間は群れる動物です。群れるというのは、仲間と仲間でないものとを区別するということです。仲間とみなさない少数の「異端者」を外すことで、「なかま」の結束を固めます。
     「障害がある」と言うのはとりもなおさず、その大きな「仲間集団に通用する生活スタイル」を利用しようとして障害を感じてしまうということです。道具だけでなく、生活習慣、考え方に至るまで。しかし、「異端者」が一人でその「障害感覚」を訴えたところで大した力にはなりません。虚しい犬の遠吠えです。
     特別支援学校に「異端者」が集まることは、一概に悪いとは思いません。そうでもしなければ、「異端者」が自分にとっての仲間と感じることができる人達の中で心を開き、社会参加していくためのテクニックや機会を得るのは難しいからです。知的障害・視覚障害・聴覚障害・身体障害・精神障害・発達障害、分ければもっとでしょうが、やはり、似たような境遇ならではの心の通い合いがあります。学びがあります。自己を見つめ確立していく青年期においては、自分を投影しながら自分を見つめていく仲間がぜひとも必要だと思います。なぜなら、社会人になっても、この「障害」というものがなくなることはなく、見つめ戦っていかなければならず、その時もまた、たった一人で戦い続けるのは、非常な勇気と、労力と、くじけない精神力とを必要とするからです。もし、「障害を感じる社会とどう戦うか」具体的な技術を持たずに卒業したなら、その後、長い手探りの日々が待っています。
     一方、障害をあまり感じない人が、「障害を感じながら生きている」人の事を少しでも理解するためには、小さい時から一緒に生活するのがいいと思います。習慣的な訓練で想像力も育つからです。また、違和感も生じにくいと思います。ただ、幼児と言うものは、基本的に残虐で、それを大人になっても引きずる人もいますが、観察力と配慮をする力のある人が見守る必要があります。人間関係を育て続けている小学校なら、クラス担任と1人の特別支援教師の、2人でのTT授業が可能と思われますが、休み時間も続行する必要があります。しかし、一般的なクラスの状態で言うと、授業以外は5人、授業でも状況で4~5人の教員態勢が必要でしょう。もちろん、生徒の特性をしっかり学んだ教師で。
     「障害を感じながら生きる」人達に配慮し、その状態を特別扱いとやっかみ快く思わないタイプの人達に配慮し、それをダイナミックな集団変革のための好機と考えて取り組む教師集団のいる学校であれば、「共に学ぶ」期間を持つことは意味があると思います。
     「仲間」と共に学ぶ時期と、「修行に出て障害と伝えていく」時期と、その人の状況や、学校の状況を考えながら、試行錯誤で取組むのがよいのではないかと思っています。特別支援学校の教師数を増やして、いつでも応援に駆け付け、共に考え工夫していく態勢が取れた方がいいと思います。もしくは、特別支援学校以外の教師が特別支援学校に出向して共に活動し、学ぶというのも良いかと思います。
     そのどちらにおいても身体機能訓練はする必要がないというのであれば、自身の身体状態を医師と相談し、訓練が必要な場合は、学校外で補充する、休養も必要かどうかも医師との相談のうえで決める。自分の人生なので、医師の指示に背いて勝手することもできるわけです。ただ、そうした場合ん、その後どうなるかといった情報は、親はもとより周囲の人と、情報の共有をして納得してもらう必要はあるかもしれません。納得していれば、どんな状態が展開しても、人は受け入れやすいものだからです。
     飛び込んでいく先駆者は、思いも強いので何とか乗り切ろうと頑張るし、その姿に理解を示す人も出てくると思います。また、問題意識も高く、具体的に何が足りないとか、こうして欲しいとか、具体的な要望を出して、周囲の動きを促進させる力も持っているかもしれません。しかし、求める学校に、そうした力がなく、教師集団もギリギリで動いていることもあります。先駆校として切り拓くという強い意志があるなら、やみくもに入学するのでなく、行こうと期待する学校の状況も把握したうえで、取れる具体的な方策を、支援する人達と話し合いながら進めることがよいと思います。1~2年間、かなり傷つき苦しむことになる覚悟が、先駆者にとっては必要かもしれません。それでも、方向性を持った、発言力のある当事者が、具体的な姿を示すことが必要なのかもしれません。
     しかし、ただ行きたいからではなく、何をそこで手に入れたいかを考え、その視点を忘れないことも必要だと思います。

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